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闇夜(やみよ)()く、あの(とり)(よう)に。

 

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 鶫は誰も居ない教室にて電気もつけず、ひとり考える。
 時は過ぎ、既に
5時を廻っている。
 別に薫子と別れてから直ぐに家へ帰ってもよかった。
 が、なんとなく今家へ帰る気にはなれなかった。誰も待つ者の居ない、あのひんやりとした淋しい場所には。
「あれー? 鶫じゃん。こんな時間に何やってんだ?」
 急に大きく無邪気な声が背中に向けられ、鶫は声がする方向――教室後方のドア方向を振り返った。
支那(しな)こそ、何やってるんだよ」
 支那はクラスメイトの
1人だ。まだこの学校に入学して間もないが、小柄な躰に伸びやかな四肢、それからすばしっこい動きにくるくると変わる多彩な表情は決して誰にでも真似出来るものではなく、まさしく支那特有のものであったのですぐにわかった。
 支那は人見知りをせず物怖じもしない性格らしく、初対面の頃から、また誰に対してもこんな調子である。
 今も何が嬉しいのか澄んだ榛色の大きな双眸を爛々と輝かせ、はきはきと鶫の質問に答える。
「俺ぇ? 俺は剣道部の下見に行ってたんだ」
「入部するの?」
「んにゃ。俺は弓道。……近所に道場あってほんのガキん時からやってっから。剣道の方は五和(さわ)の付き添い」
 五和、というのは支那の双子の兄の事だ。
1人っ子の鶫には兄弟が果たしてどんなものなのかは図りかねるが、支那と五和は非常に仲が良く、常に一緒に居る。
 よくよく見ると今も、支那の傍らには五和がすっくと立っていた。
 五和は背筋をぴんと伸ばし、非常に姿勢がいい。
 二卵性ということからか外見はあまり似ていないが、性格はもっと似ていない。寧ろ共通項を見つけ出す方が難しいほどである。
 それほどに、五和は子供びた支那の血縁者とは思えないほど物腰柔らかで大人びた少年だった。五和の醸し出す知的な雰囲気は、成る程剣道に似つかわしく感じられた。
 身長も、五和の方が支那よりかなり高い。これを支那はかなり気にしているらしく、よく「五和くらい背が高ければ」とぼやいているのだが。
「鶫は部活とかやんねーの? 運動部はいいぜー」
「僕は……そういうのはちょっと」
「何だよ、うっすいなー。だったら、文化部か? あ、よかったら文芸部入らねぇ? 俺と五和もカケモチで入ってるんだ」
「文芸部?」
 五和はともかく支那には似合わないように思え、鶫が問いかけると、支那はソレを察してか自嘲を含む笑みを浮かべつつ、
「あー……俺、作家志望なんだよ。らしくねーと思うかもしれないけど、さ」
「よくわかってるじゃないか、支那。全く、分かってるなら作家になりたいだなんてそんな絵空事口にしないで欲しいな。……支那はいつだって無謀すぎるんだよ」
 ずっと我関せずと黙っていた五和がここぞとばかりに口を開いた。彼は他の人に対しては優しくおっとりとしているのだが、支那に対してはこれが同一人物なのかと疑いたくなるような辛辣な言葉を多用し、少し意地悪になるのだ。
「っるせー、五和。夢も希望もないこと言うなよ」
「夢は所詮、夢。甘ったれたことばかり言ってないで、少しは現実見なけりゃ生きてなんかいかれないぜ。幾ら夢があったってその前に金がなけりゃ何もできないし」
「なんだよ、可愛くねーな」
「支那に可愛いなんて思われたって気色悪いだけだろ」
 なにやら雲行きが怪しくなってきたので、鶫は居たたまれなくなり咄嗟に話題を変える。
「作家になりたいってことは、やっぱり支那は北野野鳩に憧れてこの学校に来たの?」
 途端、支那はさっきまでの五和との言い争いはころっと忘れたように、再び瞳を輝かせた。
「ったりめーだろ。北野野鳩の小説は本当に最高なんだぜ? 鶫は読んだことあるか?」
「生憎ながら、僕は文章に関する読解力が何から何まで欠乏しているらしい」
 肩を竦めてみせると、支那はつまらなそうに眉を顰めた。
「んだよ、面白いのに」
「それで、ジャンルは?」
「純文学」
 意外な感じがして、思わず支那を凝視する。支那が読むぐらいだから、平易で簡潔な文章だとばかり思っていたのだ。そんな鶫を見て五和はくすりと微笑み、説明するかのように言葉を発する。
「支那は小学生の時から爺さんの書斎の純文を読んで育ったから、ね。だからかな、確かに支那は馬鹿だけど、昔から現代文だけはおれも勝ったことがないんだよ」
「五和が?」
 五和は学年総代だ。入学式でスピーチをしたのも彼だった。でもそんな五和が敵わないということは、支那の実力は相当のものらしい。
現代文が最大のネックである鶫にとっては、ただただ感嘆するばかりだ。
 当の本人である支那はあまりよくわかっていないらしく、首を傾げて見せる。
「そういえば、初めて鶫を見た時も、凄かった」
 急に五和は思い出したようにくすりと笑い、そう付け足した。
「えっ?」
「支那が北野野鳩の小説で一番好きな作品の中に」
「『回廊に咲く華』だよ」
 支那が付け足す。
「そう、その小説に、鶫そっくりな描写の(そう)って名前の少年が出て来るんだよ」
「ん。だから俺、鶫を見た時一瞬奏が本当に居ると思ってびびったんだ。『少年の名は奏といった。小枝(さえ)はその少年を見たその瞬間、星の涙を全て落としてしまった黒天鵞絨(ビロード)の天幕を見た様な、そんな気さえした。奏は、深い海底を回遊する鮪のように貪欲で、そしてこの世に存在するどんな宝石よりも美しい双眸を持ち、血を含んだ様に紅い唇、それからすっと鼻筋の通った適度に高い鼻が白磁の肌に際立っていた。小枝は不意に、奏に触れてみたい衝動に駆られた。しかし同時に、触れてしまったら最後、もう今までの小枝ではいられない、そう思わせる何かがあった』」
「まさか、丸暗記してるの?」
 意外に思い目を丸くする鶫だが、特に気にした様子もなく支那はさも当たり前のことを言うように言葉を続ける。
「ああ。俺、北野野鳩の作品は全部好きだけど、中でも『回廊に咲く華』はいっちゃん好きだからさ」
「支那、それは違うだろう? 支那が好きなのは“奏”だ」
「っ……五和」
 意地悪く笑む五和に、支那は不意に言葉に詰まった。
 しん、と静まり返った教室に、五和の凛とした態度が妙に似つかわしい。
 鶫には何が何やらよくわからないが、支那と五和の間にやけに緊迫した空気が流れるのを肌で感じ取った。
「図星、かな」
「どういう意味だよ?」
「……さあ、どういう意味なんだろう、ね」
 五和は再び、意味ありげに微笑んだ。
「俺、帰る」
 支那はそれきり何も言わず、勢い任せに扉を大げさに閉めて出て行ってしまった。
「どうやら、怒らせてしまったらしい」
 不本意の三文字をちらりと覗かせながら、五和は先ほどまでの含むもののあるねちねちとした笑みではなく、多少なりとも自嘲を含んではいるがさっぱりとした少年らしい笑みを浮かべ、鶫を振り返った。
「五和、いいの? 追わなくて」
「大丈夫だろう。支那も餓鬼じゃないんだし」
「そういう意味じゃなくって、さ」
 鶫が珍しく強い口調で言うと、五和は困ったように破顔した。
「……仕方がないんだ。正直、この頃は自分の感情が自制できないんだよ。支那を見ているとなんだか傷付けたくてたまらなくなるんだ。辛辣な言葉のナイフで心臓を(えぐ)り出したくて仕様がない。本当は、そんなことしたくないのに」
 なんと言っていいのかわからず、鶫は黙り込んでしまう。
 五和は振り返らないまま、言葉を続けた。
「どうやら、“子供”なのは支那じゃなく自分の方らしい」
「五和」
「冗談だよ」
 五和はいつもの感情の読めない笑みを浮かべ、そのまま教室を後にした。
 そして、いつもの静寂だけが鶫に残った。

 

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